概要1986年に大阪・難波にて創業。日本...

イメージキャラクター

 ・ユースケサンタマリア(1999〜)
 ・三浦知良(2001〜)
 ・リチャード・ギア(2005〜)
 ・桑田佳祐(2007〜)

概要

1986年に大阪・難波にて創業。日本で最初の男性専用エステティックサロンとして知られる。2005年には、リチャード・ギアをイメージキャラクターに起用して、テレビキャンペーンを展開、話題を集めた(2007年8月現在、桑田佳祐を起用し、テレビCMを展開中)。

エステティックサロンとしては、世界で初のISO 9001の認証取得も取得している。

運営会社は株式会社シェイプアップハウス。関連サロンとして女性専用サロン エステティックミスパリ、痩身専門女性サロン ミスパリダイエットセンター、高級デイスパ スパ・ゲストハウスを運営している。

その他関連会社に美容総合商社の株式会社ミス・パリがあり、株式会社ミスパリが運営するミスパリ エステティックスクールはエステティシャン養成校として1992年に運営開始、2005年には日本エステティック協会認定エステティシャン輩出第1位となった。


ダンディハウス

ダンディハウスは東京都港区赤坂に本社を置く男性専用エステティックサロンである。

2ちゃんねる

料金

ある財が希少性(使いたい量に比べて使える量の少ないこと)を有しているとき、それに見合っただけの価格を、その財は有することになる(希少性のない自由財は価格をもたない)。とはいえ、ある財の価格が、それに見合っただけの効用(主観的な満足)を示していると考えることはできない。たとえばダイヤモンドと水を比べた場合、前者は希少であり価格が高いが、しかし効用はありふれた後者のほうが高い。このことを、アダム・スミスに由来する価値のパラドックスという。

京都

新庄剛志

<アドバイザリー契約>
 ・デサント : 1993年 - 2003年
 ・アシックス(ローリングス) : 2002年 - 2005年
 ※現役最終となった2006年は特定の企業と用具契約を結ばなかった。
<グラブ>
 ・メーカー不明高校時代に使用していたのは、久保田スラッガー製・外野手用。テレビ番組にて、新庄が同メーカーに製作を依頼した際の、各パーツなどについての注文事項詳細を自筆で記した手紙が紹介された。当時に注文を受けた、日本屈指のグラブ作り、片付け名人として知られる江頭重利によると、こんなにも事細かに注文してきた人はいないとのこと。・外野手用
 プロ入りして初めての給料を使い7,500円で購入し、4回の補修MLB時代に、チームメートに誤ってスパイクシューズで踏まれてしまい、大きく破損したことがある。を重ね、現役引退まで使用した。保管の際の湿気などにも気を配り、自身の「もうひとつの手」と称するほど拘りの代物。グラブ外側の親指部分には「(TH)63」(阪神球団マークと入団当初の背番号)と黒色で刺繍されていた。引退会見では、グラブの消耗の度合いが限界まで達していたことを語り、前日の最後の試合中にライナーを捕球した際には破けてしまったと語った。ちなみにタグは自身の個人マークとShinjoの筆記体の入ったオリジナルタグが縫い付けられていた。
 打球の手元での急変化に対応するため、ポケットが「中央、土手、先端」の3ヶ所ある。自身は、先端部分からボールが半個分ほど出た状態でも捕球できるグラブであると語る2006年4月13日放送・テレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』でのトークより。現役時の同番組では、冗談交じりながら「もし盗まれたら引退する」と語った。先端部分からボールが半個分ほど出た状態での捕球は、阪神時代に広島市民球場でホームラン性打球を捕球した時など、幾度かその映像が中継されている。。使用時はグラブと手の固定のため、守備用手袋には松脂を塗っている。
<バット>
 ・デサント社製・34.5インチ・930 - 940g(1993年)
 他人から譲り受けたバットを試合で使用することがしばしばある。そのバットで安打や本塁打を打ったと報じられることも幾度かあった。2001年シーズンの全10本塁打のうち、9本は同僚のジョー・マクユーイングなど他人のバットで打っていて、自身のバットで打ったのは1本だけであった。
  2005年7月23日のオールスターゲーム第2戦(甲子園)では、始球式用の黄金色のバットを試合で使用した(規則上は試合での使用は認められていないが、審判も「お祭りだから」ということで黙認した)。
<スパイクシューズ>
 阪神時代は足首まであるバスケットシューズのようなハイカットタイプを履いていた。
  2005年のオールスターゲームでは、180万円相当のダイヤモンドが埋め込まれたスパイクを履いて出場した。2006年の日本シリーズで奈良県にあるジャガーズ創工社製(Jのロゴ)の金と赤のスパイクを履いた。ちなみに新庄に「J」のスパイクを紹介したのは、楽天イーグルス打撃コーチ時代の池山隆寛であった。
<ユニフォーム>
 阪神時代、チームのユニフォームはボタンのないTシャツタイプであったが、他の選手に比べて極端にVネックの深いものをオーダーし着用していた。
 袖部分が極端に短くタイトなものを、メーカーに特注していた(NPB時代)。常に二の腕部分を曝け出すことで、肉付きが甘くなると鍛えなおすためとのこと。北海道日本ハム時代のユニフォームはビジター用がデサント社製(ホーム用はミズノ社製)であるが、以前はデサントの契約選手であったこともあり、袖部分に加え、胸元部分が大きくV型に開いた特注品を着用している。
 背中のアルファベット表記は、阪神時代は「SHINJYO」この表記はローマ字表記ではヘボン式・訓令式いずれの表記法でも間違いである。であったが、メッツにFA移籍した際に「Y」を抜いた「SHINJO」に変更し、北海道日本ハムでは登録名にもして継続された。
  1999年のオールスターゲームでホーム用ユニフォームにビジターの黒帽子で登場、自身初MVPを受賞する。これが、翌2000年から(それまでのホームの)縦縞の帽子を廃止させるきっかけとなったと言われている。また新庄は2000年に、それまで使用されていたビジター用のユニフォームのデザインに意見し、ビジター用のユニフォームから縦縞を無くさせたと言われている。
  2005年オールスターゲーム第2戦の試合前にグラウンドに姿を見せた時に着用していたユニフォームは、通常はチーム名がプリントされている胸部分に「SHINJO」、逆に背中に「FIGHTERS」と正反対にあしらわれていた。自身曰く「今日は新庄ファイターズで」。そのまま出場しようとしたが、使用許可は得られなかった。
<アンダーシャツ>
 基本的にタートルネックのノースリーブ。阪神時代初期には、汗が首筋をたれ落ちるのを防ぐために、夏場は長袖では暑いので肩の部分から袖を切り落としていた(自著エッセイによると、タートルネックのノースリーブのものを着用した選手は、日本球界では自身が最初であろうとのこと)。
 北海道日本ハム時代には、首部分に自身の個人マークをプリントしている。この類の個人マークを首部分にプリントしたのは日本球界初であるベースボール・マガジン社・2008年5月26日号「綱島理友の意匠学ベースボール」
<アンダーストッキング>
 ・アディダス社製サッカー用・黒色(阪神時代初期に代用)
 ズボンの穿きこなしとして、裾とスパイク上部が数cmしか離れない穿き方が流行しはじめてからは、通常2枚穿く靴下類の代わりとして着用していた。規則では禁止であるが、自身は都合が良いと考えて初めて1枚のみの着用を始めたところ、皆も始めだしたとのこと。
<リストバンド>
 ・デサント社製・赤色・20cm、15cm、10cm(1993年)
 基本的に両手に着用し、二枚重ねにすることもある。NPB時代は基本的に、一番好きな色であり自身のトレードカラーの赤色。MLBでも当初は赤色の着用を希望したが、MLBではチームカラーにある色以外のものを身に付けることが認められないため、メッツのチームカラーの中からオレンジ色を着用(翌年の移籍先のジャイアンツもオレンジ色がチームカラーだったため、3年間継続)。日本ハム時代、プーマ社の赤と黒のチェッカーフラッグ柄を着用していた。
<エルボーガード>
 基本的に黒色が基調(阪神時代の一時は赤色基調)。打撃時に、投手側に向ける肘を死球から守るためのもので、1993年当時はまだ普及しておらず、7月に死球を左肘に受け負傷したのをきっかけに、既存の爪先ガードを切り刻み改良し、即席で肘にフィットするものを球団トレーナーに作成してもらったとのこと。MLBで初めてエルボーガードが使用されだしたのはこれより後年との報道(日刊スポーツ)もあり、現在は日米で普及し重宝されているエルボーガードを早い段階から使用し始めたとされる。
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※ 1993年のデータ、エルボーガードについて : 書籍『新庄剛志 PART2 (ベ−スボ−ルアルバム)』より
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